2014年5月13日火曜日

あの日食べたはずのおふくろの味を僕はまだ知らない

タイトルは適当ですすみません。 

先日、母の日がありましたが、僕は自分の母親には何も贈りませんでした。 事前に母から「母の日の贈り物はいりませんよ。自分の家中心にやってくださいね」と言った内容のメールがあったからです。

それまでは毎年何かしら贈っていたような気がします。カーネーションとお菓子のセットだったり。よくデパートとかコンビニに置いてある、母の日ギフトのチラシに載っているようなもの。高校生のときはわずかなバイト代で母と父二人分の湯呑を買って贈ったような。その湯呑はしばらくのちに「もらったことを覚えていない」という母の言葉を引き出すのですが、それはまた別の話。

記憶にある中で確実なのは中学生の頃、もしかしたら小学校高学年になった頃には、僕は母親のことが嫌いでした。言ってることがコロコロ変わるし。人の気持ち考えないし。お年玉を貯金しておくっていったのにいつの間にかなかったことになってるし。よくある思春期/反抗期とはまた違い、僕は人間として彼女のことが嫌いでした。よく怒鳴りあっていた覚えがあります。やっていたゲーム機のコントローラーを投げつけてしまったこともあります。

それでもおなかをいためて産んでくれたたったひとりの母親だし、なんて思いはとっくに消えてしまいました。今もそうです。彼女の存在は僕にとってとてもストレスです。母が、これは父に対しても同じ気持ちですが、僕の家族になにか面倒なことを起こそうものなら激おこです。長女が引くほど冷たい態度で接します。

それでも、最初に書いたように母の日になれば贈り物をしたり、たまに体調を気遣うようなメールを送ったりもするのですが、それは完全にアリバイ作りというか、俺はちゃんとやってる。でもあの人(母)はおかしい。という設定を守るためなんだろうと思います。ひどいですね。


思い出の話をします。
僕の実家ではほとんどの家事を父がこなしていました。食事作りも洗濯も、掃除は少し苦手だったようですが、それが普通だと思っていました。一方、母は家ではほとんど何もしません。していたのかもしれませんが僕の記憶には残っていません。仕事がとても忙しかったのでしょう、家に帰っても持ち帰った仕事を夜まで続けていました(父もそうでしたが)。そんな中、母がたまに料理をすることがありました。よりによってカレーです。僕にとって一番美味しいカレーは父の作るカレーとCoCo壱番屋のチーズカレーと、いなばのグリーンカレー(缶詰)です。



もう一度書きますが、よりによってカレーです。CoCo壱といなばのグリーンカレー缶は後発ですので、僕にとってカレーは父の作るものがシェア100%の時代です。そのリングで戦おうと言うのですから大した度胸です。母はなんとスパイスを買い込み、市販のルーではなく粉から作り始めました。味は記憶にありません。「忘れられないおふくろの味はなんですか?」なんて質問は今のところされたことはありませんが、もしされても僕はそれに答える言葉がありません。


もうひとつ、思い出の話をします。
今ではほとんど見かけませんが、昔は学校や公園に登り棒がありませんでしたか?小学校1年生か2年生のとき、実家から少し歩いた空き地に登り棒がありました。運動できることが大きな価値を持つ小学校低学年にとって、登り棒を登れるか登れないかはイコール格好いいか格好よくないかということでした。何回か何十回かの練習の結果、幼い少年は登り棒を登るスキルを得ました。誰に見せたいかってそれはもう母親しかいないですよね。母が見守る中、登り棒に登る僕、それは記憶にあります。唯一、母とのあいだで負の感情を伴わない記憶として僕の中にあります。母の記憶にはその光景はまだ、残っているでしょうか。


あの登り棒の記憶は年に一度くらい思い出します。この前実家のほうに行ったら、あの空き地はもうなくなっていました。

果たして、この記憶は本物だろうか?とも年に一度くらい考えたりもします。